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【歴史】長圓寺・小倉祇園社建立の謎に迫る~その3~

ここまで、祇園社と長圓寺の地理的な考察を行った。
それでは次に、以下の記事をご紹介したいと思う。

これは、小川研次氏が御自身のフェイスブック上で語られた文章である。
許可をいただき、そのまま全文掲載させていただいた。

「不思議な出来事」

江戸初期に小倉にて、細川ガラシャの追悼ミサを挙げていたキリシタン寺を探している。

鍛冶町の円応寺説(現北九州銀行)も有名だが、私は鋳物師町の祇園社(現八坂神社)・長円寺ではないかと思っている。

さて、調査する内に、ある疑問が浮かんだ。

京都の八坂神社、かつての祇園社である。創建当時は神仏習合であり、祇園社の守護神牛頭天王が祀られていた。本地垂迹により、スサノオであり、薬師如来でもある。

明治の神仏分離令により、薬師如来像は大蓮寺に避難した。ここから、ひょっとして小倉の祇園社にも薬師如来像があれば、隣接している長円寺にあるのではないか。

浄土宗である長円寺の住職に恐る恐る尋ねた。住職の顔色が変わった。

「どうしてわかったのですか?何故ここに薬師如来像があるのか疑問でした」

宗派が違うので、薬師如来像は本堂の蔵にあると言う。

「よろしかったら、拝見させて下さい」

住職は快諾して、見せてくれた。

その像は木製で立像。黒く変色しているのが時代を感じさせる。如来の顔は外人の様な顔つきである。

もし、この像が祇園社創建(1617年)当時のものであれば、大発見である。

私はこの像が蔵に寝ているのが忍びなく思い、住職に裏でもいいから祀ってほしいと願った。

先日、有力な檀家から像を祀る費用の申し出があったことを知って安堵した。

大蓮寺の薬師如来像は秘仏であり、一般公開はしていないが、長円寺には現世御利益の薬師如来像を是非、期間限定でも構わないから公開してほしいと思う。



もう半年ほど前の事であるが、このやり取りがあるまで、私にとって知らないことが多すぎた。
(京都)祇園社と浄土宗大蓮寺の事、神仏混合・神仏分離の事。ありとあらゆる事が、である。

確かに、当山長圓寺には黒ずみ彩色は剥がれ、腕は折れ、お立ちになられることも出来なくなってしまった薬師如来がいらっしゃる。住職である私以外その存在を知る者は少なく、もう20年以上はお眠りになられたままであった。

不思議な縁を感じ、それから小川氏のお力を借りながら色々と調べ始めた。

祇園社をはじめ全国にみられる神仏混合や神仏分離令後の本地仏の扱いなど、同じような案件やそれに付随すること等々。

すると、いろいろな事が当山長圓寺にも繋がってきた。

結論から述べると、

小倉祇園社もまた同じく神仏混合であり、さらに阿弥陀仏の浄土信仰も存在していた

のである。

次回は、その検証を述べていきたい。





【歴史】長圓寺・小倉祇園社建立の謎に迫る~その2~


次に幕末の小倉藩屋敷絵図をご覧いただきたい。
(ちなみにこちらは宝典寺さん所蔵の物を使用させていただいた)

忠興公が小倉城を築城するにあたって、東曲輪は碁盤の目のように新たに整備され、屋敷や寺院の敷地はほぼ四角形となっている。人の往来する街道もほぼ直線的である。



一方、中世から小倉の城下町である西曲輪の区画は、お堀に囲まれるなど、敷地も多少様々な形である。

それでも必ず敷地の周りを道路が囲んでいる。
恐らくは、町屋の監視・往来のし易さ。そして火事になった場合の延焼の食い止めを目的としている。



それでは、帯曲輪を見てみよう。

まず前提として、幕末は溜池新地として埋め立てられているが、創建当時は鋳物師町の周りは海あるいは堀である。つまり帯曲輪(鋳物師町一帯)は、水に囲まれた小島のような土地であった。

大門を抜け帯曲輪に入ると、まっすぐの一本道。唐津街道である。
そして左に小道があり、奥に長圓寺がある。完全な袋小路だ。

一方長圓寺前を過ぎると祇園社に突き当たり、社地に沿って急に右に左にと進む。

さて、長圓寺は安国寺移転に伴い、なぜこの場所に移らなければならなかったのか?
なぜ初めからこの場所に移らなかったのか?

それは、この場所に元々何かがあったからであり、それが無くなった、あるいは移転して空白となったため移動してきたと考えるのが自然である。

そして長圓寺移転の後、隣には元和3年(1617)祇園社を勧請し建立した。


では安国寺を三本松から鋳物師町に移転するという選択肢はなかったのだろうか?



今も長圓寺本堂から安国寺本堂屋根が向かいに見える。

400年前はもちろん大きな建物もなく、お堀を挟んで正面に対面していたことだろう。

その位、実際の距離は目と鼻の先である・・・。


【歴史】長圓寺・小倉祇園社移転建立の謎に迫る~その1~

当HPなどで何度も紹介している通り、当山長圓寺は、初めは西蓮院と称し、嘉吉元年(1441)に小倉城二の丸(現在のリバーウォーク付近)に創建された。小倉城下では最も古い浄土宗寺院である。
後に華岳山西蓮院長圓寺と名を改めた。

そして細川忠興公小倉城築城の際、竪町(現・安国寺の場所)に移転する。(1602年前後か?)
さらに僅かその数年後、今度は現在の鋳物師町へと再び移転した。

その理由について『小倉市誌』では、
「三本松に在りし安国寺は一国一寺の献寺たるを以て往来筋に建立すべき旨」によって安国寺を竪町に移し、長圓寺を鋳物師町に建立したとある。

わずかな期間の事であり、非常に不可解である。
「一国一寺の献寺たる・・・」の理由であれば築城の際に初めから竪町に安国寺を移し、鋳物師町に長圓寺を移転すれば済む話である。

これに関しては、郷土史家の先達が既にご指摘である。
そもそも小倉の安国寺は足利尊氏が全国に建立した「安国寺」とは別系統であるので、この理由は間違いであろう・・・とのことである。

それよりも寧ろ、明智光秀の末子とも言い伝えられる梵徹和尚が絡んで来ることが考えられる。
のちに梵徹和尚は細川家肥後転封の際に忠利公に熊本への同行を請われた。
条件として、ガラシャの菩提寺または安国寺を建立する事を提示。
既に禁教の世の為「秀林院」を許されず、よって熊本に安国寺を開山したという。
(つまり「秀林院」はあからさまに南蛮寺であったという事か・・・)
梵徹和尚に関しては、津々堂さんのブログにまたまたお力をいただいた。



さて、恥ずかしながら、ここに下手な手描きの地図を載せる。
国立公文書館デジタルアーカイブ「豊前国小倉城絵図」を載せたいのだが著作権の関係のため詳しくはリンク先を見ていただきたい。この地図は正保元年(1644)以前の様子である。それでも忠興公が小倉城下を整備してから約40年が経過しているが、最もその原型に近い地図であろう。

話は逸れるが、この「豊前小倉城絵図」は幕府に領国内の様子を提出した物であるが、寺院名や町名は書かれていないが、ほぼ全区画に「寺町」や「侍町」「町屋」などと書き込まれている。
しかしながら、長圓寺と祇園社の敷地はなぜか空白になっている。


さて、本題に戻ろう。
手描きの地図には赤字で1、2、3と長圓寺が移転していった場所を記した。
しかしながらその年代年号は判然としない。
(この時期は、立て続けに大地震が起きた時代である事も頭に入れておかなければいけない。)


1から2はおそらく小倉城築城の時もしくはそれよりは少し前で、2から3は慶長年間(1596‐1615)末期ではないかと推察している。
なぜなら、小倉祇園社との関係性が長圓寺移転にも深く関わっているのではないかと考えているからだ。

引き続き考察していきたい。


【ブログ】師走に駆け込み


いのちのたび博物館で催されていた「小笠原忠真展」。

行きたい行きたいと思いつつも、中々時間が取れず、気が付けば最終日となっていました。

法務の後、到着したのは閉館40分前・・・。



子供たちと一緒に・・・滑り込みセーフでした。

事前に学芸員さんにお聞きしていた通り、忠興公関連の資料や所蔵品も展示されており、かなり見応えのある内容でした。

師走の真っただ中ですが、合間を縫って行くことが出来て良かったです。
以上、珍しくプライベートブログでした。


【歴史】長圓寺墓地の紹介その3~祇園社宮司の墓~


以前から、長圓寺と小倉祇園社(現・八坂神社)との関係はブログの中で何度も扱ってきた。
もともと隣同士であるということを主に取り上げてきたが、ここに来て色々な関係性が推測されることとなった。

その事は、当ブログ(新着情報)の中で少しずつこれから明らかにしていきたいと思っている。

画像は、小倉祇園社初代宮司高山孫太夫定直の墓である。元和三年(1617)
その他、明治時代の宮司・高山出羽守藤原定政も当墓地に眠っている。

元々小倉祇園社は、細川忠興公の命により小倉南区長尾の祇園社を南殿、三本松の祇園社を北殿として勧請し鋳物師町に社地を定めた。
北殿には蒲生八幡宮より高山孫太夫藤原定直、南殿に篠崎八幡宮より川江左衛門橘種茂を迎え、代々両氏が交互に務めたそうである。(後に高山氏が単独継承)


さて、今年に入ってから歴史は相当に動き始めている。

先日、小倉一の宮・蒲生八幡宮宮司であられる高山定美氏がお出でになり、高山孫太夫定直の墓前に手を合わせられた。

高山氏のお墓がまさかお寺の中にあるとはご存知なかったそうで、小川研次氏から話をお聞きになり大変驚かれたそうである。

実に四〇〇年の時を越えて・・・。



いろいろな思いがこみ上げる。

江戸(元和)・幕末から明治という宗教の大変革期。
そして大正・昭和・平成と・・・。

神社と寺院。
お互いに一筋縄ではいかない時期も、もしやあったのかもしれない。

しかしここに新たな一歩を迎えたものだと感じている。



近い日に、お礼の参拝にお伺いしたいと思う。