【歴史】長圓寺・小倉祇園社建立の謎に迫る~その2~


次に幕末の小倉藩屋敷絵図をご覧いただきたい。
(ちなみにこちらは宝典寺さん所蔵の物を使用させていただいた)

忠興公が小倉城を築城するにあたって、東曲輪は碁盤の目のように新たに整備され、屋敷や寺院の敷地はほぼ四角形となっている。人の往来する街道もほぼ直線的である。



一方、中世から小倉の城下町である西曲輪の区画は、お堀に囲まれるなど、敷地も多少様々な形である。

それでも必ず敷地の周りを道路が囲んでいる。
恐らくは、町屋の監視・往来のし易さ。そして火事になった場合の延焼の食い止めを目的としている。



それでは、帯曲輪を見てみよう。

まず前提として、幕末は溜池新地として埋め立てられているが、創建当時は鋳物師町の周りは海あるいは堀である。つまり帯曲輪(鋳物師町一帯)は、水に囲まれた小島のような土地であった。

大門を抜け帯曲輪に入ると、まっすぐの一本道。唐津街道である。
そして左に小道があり、奥に長圓寺がある。完全な袋小路だ。

一方長圓寺前を過ぎると祇園社に突き当たり、社地に沿って急に右に左にと進む。

さて、長圓寺は安国寺移転に伴い、なぜこの場所に移らなければならなかったのか?
なぜ初めからこの場所に移らなかったのか?

それは、この場所に元々何かがあったからであり、それが無くなった、あるいは移転して空白となったため移動してきたと考えるのが自然である。

そして長圓寺移転の後、隣には元和3年(1617)祇園社を勧請し建立した。


では安国寺を三本松から鋳物師町に移転するという選択肢はなかったのだろうか?



今も長圓寺本堂から安国寺本堂屋根が向かいに見える。

400年前はもちろん大きな建物もなく、お堀を挟んで正面に対面していたことだろう。

その位、実際の距離は目と鼻の先である・・・。