【歴史】長圓寺・小倉祇園社移転建立の謎に迫る~その1~

当HPなどで何度も紹介している通り、当山長圓寺は、初めは西蓮院と称し、嘉吉元年(1441)に小倉城二の丸(現在のリバーウォーク付近)に創建された。小倉城下では最も古い浄土宗寺院である。
後に華岳山西蓮院長圓寺と名を改めた。

そして細川忠興公小倉城築城の際、竪町(現・安国寺の場所)に移転する。(1602年前後か?)
さらに僅かその数年後、今度は現在の鋳物師町へと再び移転した。

その理由について『小倉市誌』では、
「三本松に在りし安国寺は一国一寺の献寺たるを以て往来筋に建立すべき旨」によって安国寺を竪町に移し、長圓寺を鋳物師町に建立したとある。

わずかな期間の事であり、非常に不可解である。
「一国一寺の献寺たる・・・」の理由であれば築城の際に初めから竪町に安国寺を移し、鋳物師町に長圓寺を移転すれば済む話である。

これに関しては、郷土史家の先達が既にご指摘である。
そもそも小倉の安国寺は足利尊氏が全国に建立した「安国寺」とは別系統であるので、この理由は間違いであろう・・・とのことである。

それよりも寧ろ、明智光秀の末子とも言い伝えられる梵徹和尚が絡んで来ることが考えられる。
のちに梵徹和尚は細川家肥後転封の際に忠利公に熊本への同行を請われた。
条件として、ガラシャの菩提寺または安国寺を建立する事を提示。
既に禁教の世の為「秀林院」を許されず、よって熊本に安国寺を開山したという。
(つまり「秀林院」はあからさまに南蛮寺であったという事か・・・)
梵徹和尚に関しては、津々堂さんのブログにまたまたお力をいただいた。



さて、恥ずかしながら、ここに下手な手描きの地図を載せる。
国立公文書館デジタルアーカイブ「豊前国小倉城絵図」を載せたいのだが著作権の関係のため詳しくはリンク先を見ていただきたい。この地図は正保元年(1644)以前の様子である。それでも忠興公が小倉城下を整備してから約40年が経過しているが、最もその原型に近い地図であろう。

話は逸れるが、この「豊前小倉城絵図」は幕府に領国内の様子を提出した物であるが、寺院名や町名は書かれていないが、ほぼ全区画に「寺町」や「侍町」「町屋」などと書き込まれている。
しかしながら、長圓寺と祇園社の敷地はなぜか空白になっている。


さて、本題に戻ろう。
手描きの地図には赤字で1、2、3と長圓寺が移転していった場所を記した。
しかしながらその年代年号は判然としない。
(この時期は、立て続けに大地震が起きた時代である事も頭に入れておかなければいけない。)


1から2はおそらく小倉城築城の時もしくはそれよりは少し前で、2から3は慶長年間(1596‐1615)末期ではないかと推察している。
なぜなら、小倉祇園社との関係性が長圓寺移転にも深く関わっているのではないかと考えているからだ。

引き続き考察していきたい。