【歴史】長圓寺墓地の紹介その2~医師小野匡輔の墓~

長圓寺の墓地には、古いお墓がたくさんあります。

中には小倉藩の隠れた名士達のお墓が点在しています。

個人情報保護を鑑みて、歴史上の人物に限り、できる範囲で紹介してみたいと思います。



医師で儒学者の小野匡輔のお墓です。文化六年(1809)享年35歳
右隣は、匡輔の父上で同じく医師の小野玄亭(文化八年)のお墓です。

匡輔の溢れる才能と早すぎる死を惜しんで、石川彦岳(儒学者で思永館初代学頭)が自然石に碑を刻み、墓石としています。

今から200年ほど前の物ですが、なんと丁寧で素晴らしい文字なんでしょう。



十数年前まで私は、この銘文を読むことはおろか、このお墓の存在すら知りませんでした。


教えて下さったのは、「長崎街道小倉城下町の会」で副会長をされていた郷土史家の故・稲津義行先生でした。

先生がまだお元気な頃、
「小野匡輔の研究は、あまり誰もやってないから方丈さんがやったら面白いですよ。」
とおっしゃってくださいました。

ちょうどその頃、テレビドラマの「JIN_仁_」が放映された後で、すこしその気になっていたのですが地道な作業がやっぱり苦手で、途中で諦めてしまい今日に至ります・・・。

それでも、私なりに調べた所までをご紹介。

江戸中期の医師として有名な「生生堂」こと中神琴渓に京都(大津とも)で学ぶ。
秘伝を受けた後、筑前で亀井南冥の下に遊学。

父玄亭が高齢の為、侍医の職を継ぐが、25歳の時に暇を請い江戸にてさらに1年学び、その後帰郷。
幕府の官医柴田氏の門人に職を譲り(?)、父と共に市井で医療に携わる。
貴賤を問わず、名誉にとらわれずにひたすら救命活動に励む一方で、生徒を集め講義を行った。

中神の施術をまとめた『生生堂治験』2巻を著す。
『徴瘡論』、『詒謀録』を著すも未完や未脱稿のまま35歳にて惜しまれながら逝く。


さて、もし小野匡輔がもう少し長生きをしていたら小倉藩の医学の発展に少しは影響があったのでしょうか。
そんなことを考えてみるのも面白いものです。
『生生堂治験』、読んでみようかなー。


次回も墓地から1つのストーリーをお届けします。









【ブログ】長圓寺墓地の紹介その1~景観・立地的な観点から~


長圓寺の墓地は元和年間から当時のままの風情が残っています。

もとはお濠の水際だった場所や、旧祇園社との境界線沿いに生えた樹々がたくさんあります。

かなりうっそうとしてしてきましたので、思い切って一予算を掛け剪定をお願いしました。



隣の敷地にクレーンを入れさせていただき、チェーンソーにて。

丸一日掛けてお願いしましたが、あまりの量で今回は思っていたイメージの半分で終わってしまいました。



それでも、随分とスッキリ致しました。



長圓寺の墓地は、まだ土地が空いています。
今後は無縁墓などの整備予定も計画しているので、まだ広くなるでしょう。

小倉の都心部、駅近でしかも平坦な場所にある墓地というのはかなり希少だと思います。

初めて来られた方は、みな驚かれます。
こんな所に、こんな場所があったんですか?と。

次回は、歴史的な観点から紹介したいと思います。


【ブログ】お十夜法要と今後の課題


11月10日は、当山長圓寺のお十夜法要でした。

幾分風が冷たく、当初は参詣の檀信徒様が少なくなるかと思われましたが、いつも通りお参りの方がお出で下さいました。

今年度も無事に、お申し込みの諷誦回向をお勤めいたしました。

当山のお彼岸法要では法話を行うのですが、お十夜法要に限っては参詣の方に少し趣向を凝らした体験や講義を受けていただけるようにしています。

今年は、野上神仏具店さんによる「お線香の話」と聞香体験をしていただきました。



お線香の種類や製造過程の説明。

そして、聞香クイズ。
お線香の匂いを嗅いで、その香りを当てるのです。ちなみに三択です。

とはいえ、これがなかなか難しい。とりあえず私は間違えました。



全問正解の方は、お線香のプレゼントを全種類ゲットという特典がありました。

最後まで参加していただいた檀信徒様のお声を聴いても満足度が伝わってきました。
とても面白い企画でしたよ。

ただし、住職として1つ反省点。

それは、「〇〇店さんによる~」という紹介で出し物をしてしまうと、
もしかすると話の後に即売会的な流れになってしまうんじゃないかという不安を与えるのではないかという気がしました。

もちろん店名を出すことによって先々のお付き合いが繋がる事はあるでしょうが、実演販売が目的ではありません。

確かに今回も野上神仏具店さんにご協力いただきましたが、全くもってご商売とは関係のない次元で住職自身が依頼をしております。その説明を一言付け加えるべきだったと思います。

さて、そういう趣旨によって行っております、お十夜法要後の行事。
毎年、何をやろうかと頭を悩ませます。

良きアイディアがございましたら、業者さん個人さまでも構いません。
予算の都合上、採用できるか分かりませんが、ぜひご一報ください。






【ブログ】父7回忌にあたって


先代住職である吉水光慈上人の命日は平成23年11月13日。
早いもので今年で7回忌になる。

兼務寺院であった長圓寺住職を私が継職してからここまであっという間。
何とか盛り立て、次世代へと繋げていけるような寺院へ・・・出来る分野でやって来た6年間である。

父にしてみれば、私が浄土宗の学問の世界にでも入り、父自身の活動の助力になることを願っていたのかもしれないが、何せ努力の続かない性分に、人見知り、さらには下戸ゆえ賑やかな場所にも私は出たがらなかった。そういう意味で親孝行は出来なかったと自覚している。

しかし6年経った今、人に注目される事が好きだった父の略歴を、このネット上に残すことが私にできる親孝行ではないかと思い、今更ながらウィキペディア的にまとめてみようと思う。


宝典寺第二十世 長圓寺第三十二世
   吉水 光慈 上人  平成23年11月13日遷化
 仁蓮社諦誉上人友阿不請光慈大和尚  世寿72歳


略歴とエピソード

昭和15年11月25日 熊本県牛深市久玉町(現・天草市)浄土宗無量寺にて
浄土宗宗議会議長を務めた三宅春光上人・(母)光子の次男として生まれる

生まれつき視力が弱く、幼い頃からいわゆる牛乳瓶のふたのようなメガネを掛けていた。

地元の小・中学校に通うが、「神童」(自称)と呼ばれる程、学業に長けていたらしい。
その結果、何を思ったか九州の西端に近い場所から、名古屋の東海高等学校へと進学する。
政財界には錚々たる卒業生が並ぶが、聞いてもいまいち反応に困る方々で、OBの林修先生が有名になったのはつい最近のことで、父にとっては残念であろう。私が幼い頃に聞いた話では、同級生に「サンダー杉山」がいたらしい。
東京オリンピックにも出たという、のちの有名プロレスラーらしいが、ピンと来ない事この上なかった。

後日聞いた話では、ホームシックと同級生の優秀さに圧倒され、あっという間に勉強に付いていけなくなったらしい。

高校卒業後、宗門大学である大正大学に進学。
在学中は、東京信濃町の一行院にて法式の八百谷門下第1期生となったり、
錦糸町の重願寺にて随身(住込みで従事すること)した。
故・大谷旭雄上人(前重願寺住職・元大正大学教授)の回想によると、随身の身分でありながら朝が弱く、誰よりも遅く起きたり、出来ない仕事はしない、わがままな生活を送っていたそうだ。

このエピソードを聞いた幾人かの重願寺のお手伝いのOBは、皆口をそろえて
「そんな事が許されるなんて君の父上はすごいね。」と当時大学生だった私に漏らした。

大正大学卒業後、同大学院に進む。
本人は次男であるため実家に帰る場所はないと学者の道に進むことを志す。
しかし『阿弥陀経』の解釈について当時の担当教授(ビッグネーム)と意見の相違により言い争い、今で言うところの「干された」状態になり、学者の道を諦める。


昭和41年4月
実姉が北九州市門司区の西光寺に嫁いでいた縁もあり、
小倉宝典寺・長女(母)と結婚し入山、吉水姓となる。

養子となったことで、それなりの苦労はあったようである。
詳しい事はわからないが、ストレスから一時期ヘビースモーカーだったこともあったり、
また食も細く、あい変わらず朝が弱い虚弱体質だったそうだ。

二男一女に恵まれる。
そんな中、時間的には余裕があったようで、30代から40代は
全国浄土宗青年会・市立小倉小学校PTA会長・青年会議所などの活動に勤しんだ。

宝典寺第19世・長圓寺第31世吉水好春上人遷化により
昭和59・60年、宝典寺第20世・長圓寺第32世(兼務)を拝命。

その後、実父三宅春光の意志を継ぐべく、浄土宗宗議会議員を目指すも2度の落選。
敗因は、小倉組という得票数の少ない地盤、そしてここでは書く事を躊躇せねばならないような水面下での動きがあったそうだ。

平成11年10月より晴れて浄土宗宗議会議員として活動

平成14年 長圓寺大改修を完成させ、長圓寺中興号を授与せらる

平成18年から同20年6月まで宗祖法然上人800年大遠忌事務局長

平成21年1月 浄土宗財務局長就任

この期間は、父にとって多忙ながら本当に充実した時期だったと思う。

若い頃の虚弱だった体質は嘘のように、週の大半を京都や東京で過ごし週末になると小倉に戻り法事や法要及び様々なお寺の業務をこなした。

しかし、それだけに家族にとっては、宗議会議員になってからの行動を把握することが出来ず、どんな食生活を送っていたかや酒量など、健康状態などがわからない日々でもあった。したがってエピソードもあまり浮かばない。

平成23年3月 東日本大震災
平成23年4月 財務局長として福島県の被災寺院を視察に行く前日、突如として自坊にて下血。

視察に行くといって聞かない父を家族全員で留め、病院へ。
詳しい診断結果は、「食道がん」確か、ステージⅣに限りなく近いⅢだったと思う。

実は、前年の夏ごろからおにぎりの海苔などの食べ物がのどに引っ掛かって通りにくいと感じることがあったらしい。

手術は出来ず、化学療法にて治療開始。
財務局長は続けながら、がんと闘った。
その時、何かあってはいけないと京都の宗務庁に一度だけ私も同行した。

抗がん剤の副作用もあり、かなり痩せ始めていたが、初めて宗会議員の仕事ぶりを間近で見た。
10年間続けてきた生活は、こういうものだったのかと分ったような気がした。

その時の議会で、休職届を出し、病気療養後には、必ず復活すると宣言したのだと記憶している。

平成23年8月頃
抗がん剤の効果により原発巣の食道がんは縮小したが、肝臓に転移していたがん細胞がどうにもならない状況であった。

平成23年10月
知恩院にて法然上人800年大遠忌法要が厳修される。
記念法話を知恩院(御廟?勢至堂?)にて勤める。

主治医からは、立っているのも不思議な状態であると家族には通達されていたが、新幹線に乗って知恩院に向かい法話を行った。

平成23年11月に入り容態が悪化。
自宅のベッドに横たわりながら私に、「僧侶になってくれてありがとう」という言葉を投げかけた。
と共に、最後まで祖父の果たせなかった浄土宗宗務総長就任の道を目指す発言をしていた。

11月13日午前 家族全員に見守られながら遷化

振り返ってみると、父はとにかく己れのために生きた生涯であったように感じるが、
私は、そんな父が頼もしく好きであった。

見た目は似ている私だが、父のように行動力に溢れた人生は全く送れそうもない。
うらやましい限りである。

以上、多少ディスった表現もあったかもしれないが父の生涯をここに綴った。
公開する事に兄姉と感情の相違があるかもしれないが、あくまでも末子として独断によるものである。



本日、円応寺上人御導師のもと親族法類一同で無事に7回忌を勤めました。









 


【ブログ】老化現象


現在私の頭の中では、中世日本の権力者たちがどのような宗教観を持っていたかを考えながら
あれこれと仮説を立てている。

八百万の神、神仏習合、そして八宗および禅・浄土と多岐にわたる仏教宗派。
さらにそこへ西欧から入って来始めたキリスト教。

戦や天変地異・疫病に飢饉、いつ命が終わるかもわからない時代。
しかしながら武家として家臣団を統率し、一族や国を守らねばならない。

そこには自らがいつかは亡くなるという個人の死生観もあるだろうが、
愛する者と別れ、残される側になるという感情もまた存在する。





そこへ、ネット注文していた物が早速届いた。

ひとつは、神田千里氏著『宗教で読む戦国時代』。

もうひとつはCMでもお馴染み、メガネの上から掛けられる〇ズキルーペである。

40代半ばを前に、既に老眼がかなり進んでいる。

最近は、珍しく読書する機会が多くなったため少しずつ苦労し始めた。

この商品は、家内の同期の女医先生によると、なかなかいいというお墨付きがあり、購入した。

とはいっても先生は、老眼ではなく細かな医療行為に重宝しているそうだ。

早速ルーペを掛けて、『宗教で読む戦国時代』を読み始める。

なかなか興味深いことが書かれている。

しかし、まだ裸眼で読んだ方が効率いいようで、
むしろ私にはこのルーペはパソコン作業に向いているようだ。