【ブログ】平成30年早々に思うこと


早いもので、平成30年に入って1月も半ばを過ぎました。
その間、この冬一番の寒波もやってきましたが、今日はとても暖かいです。

新着情報という名のブログもしばらく更新しないと、
「忙しいの?それとも体調悪いのかしら?」
とご心配をおかけしますので・・・最近の出来事を・・・。


正月休みに私のブログを久方振りに見た妻から、
「ちょっと見ない間に、テイストが歴史に偏りすぎてませんか?前みたいにいろんな方に読みやすくした方がいいんじゃない?」
と、ありがたいご指摘を頂きました。


さてさて、
もうすぐ校区の小学生3年生が恒例の歴史散策を行います。
散策は長崎街道小倉城下町の会の方々が案内してくださいます。

今年散策を体験する3年生の長男に詳しく聞いてみると、散策ルートは何コースかに分かれていて希望のルートを選んでいいそうです。

長男は、コースに長圓寺が入った唐津街道ルートを選んだそうですが、

「長圓寺方面は、人気がないよ!」

と、ありがたいご指摘を頂きました。

やっぱり小倉城が人気だそうです。

という事で、
今年も、少しでも多くの方に知っていただけるように情報を発信していけるよう、精進してまいりたいと思いますので、何卒宜しくお願い致します。

長圓寺 住職拝


【歴史】長圓寺・小倉祇園社建立の謎に迫る~その5~秘仏・薬師如来立像

前回前々回のブログの中で、薬師如来についてお伝えした。

寺院所蔵の目録に確かに「薬師如来像」とあるが、一体どれほどの間、人目に触れていなかったかは、私にはわからない。

なぜなら立像ではあるが、お立ちになる事が出来なかったため、いわば永い間、閉じられていたままの状態であったからである。

今回、篤信者さまの御協力を賜り、厨子の新調、折れた腕の修復、そして何よりも御足で自立していただく為に計画を練った。

当初は、寺院仏具のサイトで既存の厨子を検索したのだが、漆に金箔そして金具。
それはそれで素晴らしく、金額もかなりの物である。けれど何かが違うと思っていた。

それは、この薬師如来像の由来の可能性や人目に触れず永く眠っていたことが、きらびやかな厨子よりも何か純粋で自然に近い方がいいのではないかと感じさせられたからだ。

何も必ず仏具店に頼むという選択をしなくても良いのではないか?

そう考えていると、ここにも縁は働きかけてくれた。

妻のいとこの同級生が小倉南区で自然素材を生かした家具工房を開いている。
501furnitureの渡辺圭さん
以前、名刺を交換したことがあったが、サイトを見てみるとオーダーメイドで仏壇を制作した経験がギャラリーに載っていた。

従妹に連絡をしてもらい、それからトントン拍子に打ち合わせは進んだ。

偶然にも渡辺さんの友人に大手の仏像修復所で長年修業を積まれ、今は現代彫像を専門とされている方がおられ、その方とも情報を交換するなどの機会をいただき、作業は進捗していった。

そして、晴れて平成29年の年内にご納入いただく運びとなった。



全てケヤキで、蝶番などの金具は一切使用せずに作られている。

特に正面の扉は、一枚のケヤキを真っ二つに割ったものを使っているので木目が左右対称である。

当初は、古色塗りをしていただく予定だったが、製作途中にこの木目の素晴らしさと白木の清浄な雰囲気を見た途端に心は奪われてしまった。

神聖な本地仏には、このままでいい、いやこれがいいと心から感じた。




さて、秘仏薬師如来像ですが、今のところ、一般への公開は予定しておりません。
今後、時期を定めるなど、検討してまいりたいと思います。


【歴史】長圓寺・小倉祇園社建立の謎に迫る~その4~

長圓寺墓地には、初代宮司をはじめ幾人かの宮司が眠っている。

そこで、
長圓寺は小倉祇園社にとって神護寺や別当寺院的役割を果たしていた?
少々誇大妄想だが、逆に祇園社が鎮守社的な存在だったのではないか?と考え始めた。


しかしながら、明治維新の動乱や神仏分離の影響もあって長圓寺には明治中期以降からの記録しか残っておらず、全く確証が持てないのであった。

何か手掛かりは見つからないものかと、その日も市立図書館の郷土史コーナーを閲覧していた。

以前も目を通したはずの『小倉郷土史学』を手に取り、ページをめくっているとそこには

「細川忠興ゆかりの石燈籠について」 高山 定基 とあった、

奇しくも、八坂神社元宮司である故・高山定基氏の論考である。

現在、県指定の文化財となっている八坂神社の石燈籠一対に関して、その大きさの違いから、これは対ではなく、北殿と南殿の一殿に一基というスタイルで建てられ、且つ忠興のこだわりあっての造作であるとのことが概ね述べられている。

その中で高山氏は京都祇園社(八坂神社)の神仏混合についてや、また文化人たる忠興公が京都祇園社を意識(真似)していることに触れている。

そしてその次に、高山氏自身が石燈籠と同じ位の社宝であると自負する祇園社創建当時の棟札
二枚(北殿と南殿)が手描きで記されていた。

それを見て、私は思わず驚き、声をあげてしまった。

なんと北殿(高山家)の棟札の上部には阿弥陀三尊の梵字が記されていた。

神職である高山氏は恐らくあまり気に留めている様子はなく、象形文字のように書き写しておられるが、配置からしても間違いなくキリーク・サ・サクの阿弥陀三尊である。

その下には、
「奉建立 祇園御社一宇者 大願主 豊前後二品太守 細川越中守参議源朝臣忠興 敬白 元和三 丁巳  年九月吉祥日」  ※神主 高山孫太夫とある。

大願主忠興公の名のもとに阿弥陀三尊を奉り祇園社建立を報告しているのである。

長圓寺の阿弥陀如来像は、細川三斎公より寄付せらると伝わっているが、この棟札もその関連を物語っているのではないだろうか。

南殿(川江家)の棟札も願主や日付ともに記述は同じだが、梵字の部分が判別できない。これが薬師三尊であれば実に面白い。是非見てみたいものだが・・・。

(その後の調べで、他の神社でも現存する同様の棟札が存在する事が分かった。例えば、宮城県松島町の初原天神社の棟札には阿弥陀・薬師・観音の三尊をして、堂宇修復を祈願しており、供養導師を別当寺院が勤めたという記録が残っている。また、別の神社の場合では、廃仏毀釈の時に梵字の部分のみを消したり、切断したケースもあるという。仏教が関わっていたという痕跡を抹消した訳である。)


しかしながら、創建当時の棟札という間違いのない史料から小倉祇園社も同じく神仏混合であることが判明した。

そして初代宮司高山孫太夫が何故に長圓寺墓地に眠り、墓石には蓮台が彫られその上に名が刻まれているかを伺い知ることができたと感じている。

神仏習合によると八幡神の本地仏は阿弥陀如来である。
八幡宮より迎えられた祇園社初代宮司である。当時の考えからすれば決して不思議な事ではないのかもしれない。

そして祇園社は牛頭天王・素戔嗚尊を祀る、本地仏は薬師如来である。

忠興公はなぜ祇園社を勧請し燈篭を建てたのか?それは、眼病平癒の為である。

なぜ薬師如来が長圓寺に存在しているのか・・・おのずと理解へと近づいていくのではないか・・・。

余談ではあるが、この石燈籠の奉納者(願主)は忠興直臣の入江平内入道である。
この入江平内入道の妻はお霜という説がある。
あの細川ガラシャの遺言を託され、最期の様子を後世に残した(「霜女覚書」)ガラシャ御付の侍女である。
ここにもガラシャの因縁を感じる・・・。

さて貴重な発表を残していただいた高山定基氏のその後、八坂神社さんもいろいろとお有りで・・・現在この社宝である棟札は行方知れずというアナウンスであるという・・・。
この先、見ることは叶わないのであろうか・・・。


(画像はイメージです)


【歴史】長圓寺・小倉祇園社建立の謎に迫る~その3~

ここまで、祇園社と長圓寺の地理的な考察を行った。
それでは次に、以下の記事をご紹介したいと思う。

これは、小川研次氏が御自身のフェイスブック上で語られた文章である。
許可をいただき、そのまま全文掲載させていただいた。

「不思議な出来事」

江戸初期に小倉にて、細川ガラシャの追悼ミサを挙げていたキリシタン寺を探している。

鍛冶町の円応寺説(現北九州銀行)も有名だが、私は鋳物師町の祇園社(現八坂神社)・長円寺ではないかと思っている。

さて、調査する内に、ある疑問が浮かんだ。

京都の八坂神社、かつての祇園社である。創建当時は神仏習合であり、祇園社の守護神牛頭天王が祀られていた。本地垂迹により、スサノオであり、薬師如来でもある。

明治の神仏分離令により、薬師如来像は大蓮寺に避難した。ここから、ひょっとして小倉の祇園社にも薬師如来像があれば、隣接している長円寺にあるのではないか。

浄土宗である長円寺の住職に恐る恐る尋ねた。住職の顔色が変わった。

「どうしてわかったのですか?何故ここに薬師如来像があるのか疑問でした」

宗派が違うので、薬師如来像は本堂の蔵にあると言う。

「よろしかったら、拝見させて下さい」

住職は快諾して、見せてくれた。

その像は木製で立像。黒く変色しているのが時代を感じさせる。如来の顔は外人の様な顔つきである。

もし、この像が祇園社創建(1617年)当時のものであれば、大発見である。

私はこの像が蔵に寝ているのが忍びなく思い、住職に裏でもいいから祀ってほしいと願った。

先日、有力な檀家から像を祀る費用の申し出があったことを知って安堵した。

大蓮寺の薬師如来像は秘仏であり、一般公開はしていないが、長円寺には現世御利益の薬師如来像を是非、期間限定でも構わないから公開してほしいと思う。



もう半年ほど前の事であるが、このやり取りがあるまで、私にとって知らないことが多すぎた。
(京都)祇園社と浄土宗大蓮寺の事、神仏混合・神仏分離の事。ありとあらゆる事が、である。

確かに、当山長圓寺には黒ずみ彩色は剥がれ、腕は折れ、お立ちになられることも出来なくなってしまった薬師如来がいらっしゃる。住職である私以外その存在を知る者は少なく、もう20年以上はお眠りになられたままであった。

不思議な縁を感じ、それから小川氏のお力を借りながら色々と調べ始めた。

祇園社をはじめ全国にみられる神仏混合や神仏分離令後の本地仏の扱いなど、同じような案件やそれに付随すること等々。

すると、いろいろな事が当山長圓寺にも繋がってきた。

結論から述べると、

小倉祇園社もまた同じく神仏混合であり、さらに阿弥陀仏の浄土信仰も存在していた

のである。

次回は、その検証を述べていきたい。