【歴史】忘却の彼方~閻魔大王~


当山所蔵、閻魔大王像である。

実は、約半年前までは何故あるのか縁起もわからず、ただ本堂の隅に祀られていた。

しかし以前、当ブログでも触れた「小川さんの来訪」から始まった、くだんの歴史探索により

様々なことが明るみになってきた。

以下『小倉市誌』の記述より

「鋳物師町 此の鋳物師町より平松口御門迄を帯廓と云ふ。
  東蓮寺あり。焔魔の木像あり。正月・七月十六日に地獄極楽の絵を掛く。諸人参詣す。
   (中略)此の夜鋳物師町にては花火を揚ぐ。 ・・・。」

東蓮寺とは当山長圓寺の末寺で、
大門側から日豊本線鋳物師踏切を渡ってすぐ右手に明治初期まで存在した。

本尊は阿弥陀如来(現存)、そしてこちらの閻魔像があったという。
残念ながら、地獄絵図は存在していない。

小倉城下の閻魔像と言えば小倉北区長浜町の閻魔堂が有名である。
こちらも同じく浄土宗の円応寺さんの末寺である。

先日、円応寺のご住職と談義させていただいた。

ここからは推測であるのだが、東の長浜、西の平松いずれも漁師町であり、源流は同じである。
その方々からの深い信仰があったのではないか。

また、閻魔像を祀り地獄極楽図の絵解きを行うことは
浄土信仰にとって重要な教化の材料となったのではないか、ということである。



さて、もう一つ興味深いことがある。

その昔、常盤橋を渡った現・室町交番の辺りは牢獄があり、処刑人はそこを出発し

地獄橋(現・極楽橋)を渡り、日明処刑場(首切り地蔵あり)へと向かった。

船で向かったという説もあるが、市中引き回しの刑ならば当然、鋳物師町を通ったはずである。

地獄橋の手前にある最後の寺院は金蓮寺観音堂(現・鋳物師地蔵尊)。
こちらも長圓寺の末寺であった。


このことに着目された小川さんは、題して「獄門ウォーキングツアー」を企画された。

先月・今月と旅のスタートに長圓寺閻魔大王への参詣を選んでいただいた。


江戸時代、小倉城下の庶民の信仰を集めていた東蓮寺閻魔像。

消されていた記憶から再びよみがえり始めたのだと感じている。

だが、それは閻魔像だけに限った事ではない。まだまだ他にも判明したことは数知れず。

いずれまた。

それにしても、彩色も剥がれ眠っていた閻魔像であるが勢いはなかなかである。