【ブログ】父7回忌にあたって


先代住職である吉水光慈上人の命日は平成23年11月13日。
早いもので今年で7回忌になる。

兼務寺院であった長圓寺住職を私が継職してからここまであっという間。
何とか盛り立て、次世代へと繋げていけるような寺院へ・・・出来る分野でやって来た6年間である。

父にしてみれば、私が浄土宗の学問の世界にでも入り、父自身の活動の助力になることを願っていたのかもしれないが、何せ努力の続かない性分に、人見知り、さらには下戸ゆえ賑やかな場所にも私は出たがらなかった。そういう意味で親孝行は出来なかったと自覚している。

しかし6年経った今、人に注目される事が好きだった父の略歴を、このネット上に残すことが私にできる親孝行ではないかと思い、今更ながらウィキペディア的にまとめてみようと思う。


宝典寺第二十世 長圓寺第三十二世
   吉水 光慈 上人  平成23年11月13日遷化
 仁蓮社諦誉上人友阿不請光慈大和尚  世寿72歳


略歴とエピソード

昭和15年11月25日 熊本県牛深市久玉町(現・天草市)浄土宗無量寺にて
浄土宗宗議会議長を務めた三宅春光上人・(母)光子の次男として生まれる

生まれつき視力が弱く、幼い頃からいわゆる牛乳瓶のふたのようなメガネを掛けていた。

地元の小・中学校に通うが、「神童」(自称)と呼ばれる程、学業に長けていたらしい。
その結果、何を思ったか九州の西端に近い場所から、名古屋の東海高等学校へと進学する。
政財界には錚々たる卒業生が並ぶが、聞いてもいまいち反応に困る方々で、OBの林修先生が有名になったのはつい最近のことで、父にとっては残念であろう。私が幼い頃に聞いた話では、同級生に「サンダー杉山」がいたらしい。
東京オリンピックにも出たという、のちの有名プロレスラーらしいが、ピンと来ない事この上なかった。

後日聞いた話では、ホームシックと同級生の優秀さに圧倒され、あっという間に勉強に付いていけなくなったらしい。

高校卒業後、宗門大学である大正大学に進学。
在学中は、東京信濃町の一行院にて法式の八百谷門下第1期生となったり、
錦糸町の重願寺にて随身(住込みで従事すること)した。
故・大谷旭雄上人(前重願寺住職・元大正大学教授)の回想によると、随身の身分でありながら朝が弱く、誰よりも遅く起きたり、出来ない仕事はしない、わがままな生活を送っていたそうだ。

このエピソードを聞いた幾人かの重願寺のお手伝いのOBは、皆口をそろえて
「そんな事が許されるなんて君の父上はすごいね。」と当時大学生だった私に漏らした。

大正大学卒業後、同大学院に進む。
本人は次男であるため実家に帰る場所はないと学者の道に進むことを志す。
しかし『阿弥陀経』の解釈について当時の担当教授(ビッグネーム)と意見の相違により言い争い、今で言うところの「干された」状態になり、学者の道を諦める。


昭和41年4月
実姉が北九州市門司区の西光寺に嫁いでいた縁もあり、
小倉宝典寺・長女(母)と結婚し入山、吉水姓となる。

養子となったことで、それなりの苦労はあったようである。
詳しい事はわからないが、ストレスから一時期ヘビースモーカーだったこともあったり、
また食も細く、あい変わらず朝が弱い虚弱体質だったそうだ。

二男一女に恵まれる。
そんな中、時間的には余裕があったようで、30代から40代は
全国浄土宗青年会・市立小倉小学校PTA会長・青年会議所などの活動に勤しんだ。

宝典寺第19世・長圓寺第31世吉水好春上人遷化により
昭和59・60年、宝典寺第20世・長圓寺第32世(兼務)を拝命。

その後、実父三宅春光の意志を継ぐべく、浄土宗宗議会議員を目指すも2度の落選。
敗因は、小倉組という得票数の少ない地盤、そしてここでは書く事を躊躇せねばならないような水面下での動きがあったそうだ。

平成11年10月より晴れて浄土宗宗議会議員として活動

平成14年 長圓寺大改修を完成させ、長圓寺中興号を授与せらる

平成18年から同20年6月まで宗祖法然上人800年大遠忌事務局長

平成21年1月 浄土宗財務局長就任

この期間は、父にとって多忙ながら本当に充実した時期だったと思う。

若い頃の虚弱だった体質は嘘のように、週の大半を京都や東京で過ごし週末になると小倉に戻り法事や法要及び様々なお寺の業務をこなした。

しかし、それだけに家族にとっては、宗議会議員になってからの行動を把握することが出来ず、どんな食生活を送っていたかや酒量など、健康状態などがわからない日々でもあった。したがってエピソードもあまり浮かばない。

平成23年3月 東日本大震災
平成23年4月 財務局長として福島県の被災寺院を視察に行く前日、突如として自坊にて下血。

視察に行くといって聞かない父を家族全員で留め、病院へ。
詳しい診断結果は、「食道がん」確か、ステージⅣに限りなく近いⅢだったと思う。

実は、前年の夏ごろからおにぎりの海苔などの食べ物がのどに引っ掛かって通りにくいと感じることがあったらしい。

手術は出来ず、化学療法にて治療開始。
財務局長は続けながら、がんと闘った。
その時、何かあってはいけないと京都の宗務庁に一度だけ私も同行した。

抗がん剤の副作用もあり、かなり痩せ始めていたが、初めて宗会議員の仕事ぶりを間近で見た。
10年間続けてきた生活は、こういうものだったのかと分ったような気がした。

その時の議会で、休職届を出し、病気療養後には、必ず復活すると宣言したのだと記憶している。

平成23年8月頃
抗がん剤の効果により原発巣の食道がんは縮小したが、肝臓に転移していたがん細胞がどうにもならない状況であった。

平成23年10月
知恩院にて法然上人800年大遠忌法要が厳修される。
記念法話を知恩院(御廟?勢至堂?)にて勤める。

主治医からは、立っているのも不思議な状態であると家族には通達されていたが、新幹線に乗って知恩院に向かい法話を行った。

平成23年11月に入り容態が悪化。
自宅のベッドに横たわりながら私に、「僧侶になってくれてありがとう」という言葉を投げかけた。
と共に、最後まで祖父の果たせなかった浄土宗宗務総長就任の道を目指す発言をしていた。

11月13日午前 家族全員に見守られながら遷化

振り返ってみると、父はとにかく己れのために生きた生涯であったように感じるが、
私は、そんな父が頼もしく好きであった。

見た目は似ている私だが、父のように行動力に溢れた人生は全く送れそうもない。
うらやましい限りである。

以上、多少ディスった表現もあったかもしれないが父の生涯をここに綴った。
公開する事に兄姉と感情の相違があるかもしれないが、あくまでも末子として独断によるものである。



本日、円応寺上人御導師のもと親族法類一同で無事に7回忌を勤めました。