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【ブログ】法要準備


7月27日は当山長圓寺の永代経ならびに施餓鬼法要が執り行われます。

目下、塔婆書に集中しております(汗)

関東では、お墓に大きな卒塔婆を立てることが多いようですが、

九州(少なくとも福岡県)のお墓では見かけることはありません。

当山でもそれは同じです。

その代わりに主に経木塔婆といって薄い木の板でできた塔婆を盆・施餓鬼に用います。

古代に使われた木簡に似ていますが、上部に五輪塔の様に刻みが入っています。


まだまだこれからですが大丈夫、あと1週間の時間的余裕があります(笑)


【歴史】板櫃川の流れ

この度の九州北部豪雨において被害に遭われた方々へ心からお見舞い申し上げます。



北九州市小倉北区も豪雨により周辺地域は避難指示が出ました。

テレビで板櫃川の水流の中継が幾度となく放送されていました為か、
いくつかのご心配のお電話をいただき、ありがたく存じます。

中継場所は近いとはいえ、長圓寺からは直線距離で約700mの辺りという場所でした。

とは言え、7日午前中は板櫃川・紫川ともに危険水域を超え、さすがに恐怖を感じました。

市内では、いまだ避難されている方もおられます。

今日7月8日も午後から雨が降るという予報ですが、ひどくならないことを切に願います。



さて、この板櫃川。

調べによると、古来より「降れば水害、照れば干ばつ」、そんな河川だったそうです。

実は、板櫃川は昭和8年ごろまで当山長圓寺の裏手沿いに流れていたのです。



幕末の様子






現在のサンリブ西小倉裏手から日豊本線沿いに北上、そしてテキサス1000裏、
九電変電所鉄塔辺り長圓寺墓地沿いはまさに板櫃川の河岸だったのです。



(金色の線が昔の流れ、
八幡から到津を通り菜園場・愛宕・小倉高校横を通り平松から海へ抜ける青色の線が現在の板櫃川)

昭和9年、水害の多さから大治水工事により現在の板櫃川の流れに付け替えられたという事です。

少なくとも享保年間に2度の水害。明治6・7・17・19・24年は、立て続けに被害甚大。
付け替え後の昭和28年未曽有の大水害。

これらを教訓に、特に昭和の大水害以降は河川工事・貯水池開発などを積極的に行い、
今では水害、渇水に対してとても強い都市となりました。


しかしながら今回、改めて川の流れと水害の歴史を振り返り、考えてみると、

実際、長圓寺墓地裏手境界沿いにあるお墓にはあまり古いものはなく、
もしかしたら明治期頃まではかなり被害に遭っていたのではないかと思わざるを得ません。

何か伝え聞いておられないか、あるお方にお命日参りで伺ってみようと思います。


【お知らせ】ゆうメール発送


更新遅れております・・・。

というのも、早いもので7月です。

お施餓鬼法要(7月27日)に、お盆参り(8月6日~15日)ももうすぐです。

バタバタしておりましたが、ようやく今年のお盆参りのスケジュールがおおむね決まりました。

よって明日の午前中には、ご案内を発送させていただきます。

何卒宜しくお願い致します。


【長圓寺の歴史】小倉藩のキリシタン(不定期連載)その3

小川さんから教えていただいた細川忠興・忠利・ガラシャそして明智家にまでまつわるお話。

歴史は好きなほうだと思っていたのだが、私の知らないことは多すぎた。



まず盲点だった事。それは、
細川忠興公の時代の豊前国(中津も含む)は全国でも有数のキリシタン都市であったという事だ。

『北九州市史』~近世~の宗教・文化編を見ると、まず第一章に取り上げられているというのに、全く気が付かなかった。


宣教師の著した史料によると・・・
慶長九年(1604)頃、小倉城下町の人口の約3分の1がカトリック信者であったとされている。
(小倉カトリック教会HPより)


ご存じの様に日本人というのは、古来より様々な宗教が複雑に絡み合い、積極的に受容・融合していくという、世界から見ると不思議な宗教観を持った民族である。

であるから小倉の人口の3分の1が敬虔なキリシタンであったというのは早計かもしれないが、それでも教会に足を運ぶ信者は実に2,000人に及んだという。

ちなみに小倉城下には2つの教会があり、忠興公は大いに保護し、布教を手厚く支援したという。
忠興公自身がキリシタン信者となることはなかったが、神父にガラシャの祭式(追悼ミサ)の挙行を毎年要請した。
また、忠興の弟や息子である忠利(小倉藩2代藩主)や娘2人は皆キリシタンであったとされる。

小倉にあったとされる2つの教会。
その所在地(跡地)は不明だという。 ~つづく~

次回は、小川さんがまとめられた文章を使用させていただき、私なりに綴っていきたいと思います。

【長圓寺の歴史】その1

【長圓寺の歴史】その2



【長圓寺の歴史】細川家とのつながり(不定期連載)その2

さて、腰の重い私が、もう一度改めて長圓寺の歴史を調べることとなったのは、
奇しくもこのブログにも起因があった。


ある日、本堂の瓦を眺める一人の紳士がいらした。

お墓参りの檀家さん??ではない・・・。

遠くから会釈し、目が合うと、こちらに来られ

「確かに九曜紋の瓦ですね。ガラシャのマリア像についてのブログを見ました。」

とお話になられ、驚く私。。。


確かに、以前、長圓寺住職のO型ブログに書いた。

その記事内容は、うちの檀家さんの言い伝えである。
長圓寺には「細川ガラシャの秘仏・マリア観音」があったとか、なかったとか。
詳しくは➡「細川ガラシャ」O型ブログ



さて、本堂を眺めておられたその方は、
小川さんと名乗られ、そこから沢山の興味深い話を教えてくださった。

私も食い入るようにそのお話に耳を傾けていると、

日本で最初に作られたワインは細川小倉藩の物であり、
その目的は細川ガラシャ追悼のために使用されたのではないかと推察したことから、
細川家について小倉城下・熊本・京都はもちろん、世界を回って調査されているとの事。

『小倉藩葡萄酒事情』という著作も拝見させていただいた。

小川さん・ワイン。。。

・・・あっ。

その方は、小倉のワイン界で有名な小川研次さんであった。

私の父とは、某国際社会奉仕団体の会員として一緒に活動されておられ、
生前中の父からは、その御名前を聞く機会があったのを思い出した。

まさかこんなご縁があるとは・・・。

これを機に、改めてもう一度長圓寺の歴史や細川家とのつながりを調べてみようと考えたのであった。



【長圓寺の歴史】その1