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【長圓寺の歴史】小倉藩のキリシタン(不定期連載)その3

小川さんから教えていただいた細川忠興・忠利・ガラシャそして明智家にまでまつわるお話。

歴史は好きなほうだと思っていたのだが、私の知らないことは多すぎた。



まず盲点だった事。それは、
細川忠興公の時代の豊前国(中津も含む)は全国でも有数のキリシタン都市であったという事だ。

『北九州市史』~近世~の宗教・文化編を見ると、まず第一章に取り上げられているというのに、全く気が付かなかった。


宣教師の著した史料によると・・・
慶長九年(1604)頃、小倉城下町の人口の約3分の1がカトリック信者であったとされている。
(小倉カトリック教会HPより)


ご存じの様に日本人というのは、古来より様々な宗教が複雑に絡み合い、積極的に受容・融合していくという、世界から見ると不思議な宗教観を持った民族である。

であるから小倉の人口の3分の1が敬虔なキリシタンであったというのは早計かもしれないが、それでも教会に足を運ぶ信者は実に2,000人に及んだという。

ちなみに小倉城下には2つの教会があり、忠興公は大いに保護し、布教を手厚く支援したという。
忠興公自身がキリシタン信者となることはなかったが、神父にガラシャの祭式(追悼ミサ)の挙行を毎年要請した。
また、忠興の弟や息子である忠利(小倉藩2代藩主)や娘2人は皆キリシタンであったとされる。

小倉にあったとされる2つの教会。
その所在地(跡地)は不明だという。 ~つづく~

次回は、小川さんがまとめられた文章を使用させていただき、私なりに綴っていきたいと思います。

【長圓寺の歴史】その1

【長圓寺の歴史】その2



【長圓寺の歴史】細川家とのつながり(不定期連載)その2

さて、腰の重い私が、もう一度改めて長圓寺の歴史を調べることとなったのは、
奇しくもこのブログにも起因があった。


ある日、本堂の瓦を眺める一人の紳士がいらした。

お墓参りの檀家さん??ではない・・・。

遠くから会釈し、目が合うと、こちらに来られ

「確かに九曜紋の瓦ですね。ガラシャのマリア像についてのブログを見ました。」

とお話になられ、驚く私。。。


確かに、以前、長圓寺住職のO型ブログに書いた。

その記事内容は、うちの檀家さんの言い伝えである。
長圓寺には「細川ガラシャの秘仏・マリア観音」があったとか、なかったとか。
詳しくは➡「細川ガラシャ」O型ブログ



さて、本堂を眺めておられたその方は、
小川さんと名乗られ、そこから沢山の興味深い話を教えてくださった。

私も食い入るようにそのお話に耳を傾けていると、

日本で最初に作られたワインは細川小倉藩の物であり、
その目的は細川ガラシャ追悼のために使用されたのではないかと推察したことから、
細川家について小倉城下・熊本・京都はもちろん、世界を回って調査されているとの事。

『小倉藩葡萄酒事情』という著作も拝見させていただいた。

小川さん・ワイン。。。

・・・あっ。

その方は、小倉のワイン界で有名な小川研次さんであった。

私の父とは、某国際社会奉仕団体の会員として一緒に活動されておられ、
生前中の父からは、その御名前を聞く機会があったのを思い出した。

まさかこんなご縁があるとは・・・。

これを機に、改めてもう一度長圓寺の歴史や細川家とのつながりを調べてみようと考えたのであった。



【長圓寺の歴史】その1


【ブログ】菩提樹の樹の下で・・・


梅雨入りしたとは言え、気持ちのいい晴れ間です。

今年もこの時期になると、菩提樹の花の甘い香りがお寺全体を包んでいます。

本当にびっくりするくらい広範囲に香りが立ち込めているんですよ~。



ご存じの方も多いと思いますが、この菩提樹は西洋菩提樹と言って、
お釈迦様が悟りを開かれたときに座っていたインドボダイジュとは違います。

中国を含む東アジアの地域ではインドボダイジュの生育が難しいため、
栄西禅師が菩提樹に似ていたこの西洋菩提樹を中国から日本に持ち帰りになり、
全国の寺院に植樹が広まっていったといわれています。

かなり大きく、花の量が想像を超える量です。
香りが広がるのも納得ですね。



その香りに誘われて、今年も無数のミツバチがせっせと蜜を集めています。

ミツバチだけでなく、たくさんの昆虫や鳥たちも・・・。

そんなこの菩提樹の下の土の中にはたくさんの蝉の幼虫が、
梅雨明けを機に、成虫になる為、地面から出てくる時を待っていることでしょう。




ちなみに、境内の梅の実の収穫も進んでいます。

今年は、このカゴのあと10倍はあります。。。

なかなか作業が進まず、2本あるうちの1本はまだ手つかずの状態で、完熟しそうです・・・。

以上、テーマ「自然のこと」でした。


【長圓寺の歴史】細川家九曜紋(不定期連載)その1

まず、はじめに。

華岳山長圓寺の開山年は、嘉吉元年(1441)である。

これは、小倉城下町の有史上では2番目に古い。
(なぜなら中世以前の小倉の様子は史料が乏しく不明な点が多い)

明治期までは、末寺・末庵、計四ケ寺を抱えた寺院であったが、
幕末の小倉戦争における混乱に乗じた略奪などにより寺宝は散逸する。

また廃仏毀釈等の影響もあったか、末寺はすべて廃寺となり、
寺有地も経済的困窮を乗り切るために手放された。

その後昭和中期には、後継者の夭逝により無住にもなった。

もともと縁戚であったため、同じく小倉・宝典寺の住職(私の祖父・父)が兼務住職を勤め、
荒廃した伽藍も平成14年に大改修を行い、それと同時に拙僧が入山し、やがて第33世住職となった。

なぜに改めてここに綴るのか。

これは、寺伝の少ない長圓寺にとって後世に残すべき史料として
私が気づいた事を雑記していくものである。

ことの発端はいずれ述べるとするが、歴史を遡らずを得ない興味深いご縁に出会ったことによるものである。





昭和八年十月一日。当山長圓寺、五重相伝の記念写真である。

二十歳のころの祖母も行者として写っている。

前回、「往生伝について」の中でも触れていたが、
五重相伝とは浄土宗在家信者における最高の修行である。

この行により真の仏弟子となり、念佛の極意や生前に法名も授かる。

さて、
本堂前の提灯をご覧いただきたい。
やはり長圓寺の寺紋は細川九曜紋なのである・・・。
いや正確には、細川忠興公の時代のため、いわゆる九曜紋である。

小倉城下においては小笠原家の三階菱は今もよく目にする機会もあるはず。



もちろん現在の屋根瓦も九曜紋。昔の本堂の瓦も一つ現存している。

何故に、この九曜紋を拝領したのだろうか・・・。

武家にとって禅宗信仰が多い戦国末期から江戸前期、
どちらかと言うと大名にとって浄土宗寺院は、奥方や姫君の菩提を弔う場合が多い。

ちなみに長圓寺では細川家ゆかりの方を弔った記録はない。いや正確には残っていない。

もちろん浄土宗寺院なので藩主の祈願所になる可能性もないといっていいだろう。


写真に写る方々はその理由を伝え聞いていたのだろうか。

問いかけても、答えが返るはずもなく・・・。


【エッセイ】『往生伝』について


およそ2年程前のこと。

いつもお世話になっている小倉門中、生往寺のご住職安永宏史上人から、

「往生伝に豊前国小倉の方の記述があって、
   それが長圓寺さんのお檀家さんというのが見つかりましたよ。」

と教えていただいた。

往生伝・・・。
日本史の好きな方はピンとくるかもしれない。

日本では浄土教が隆盛を始めた平安時代に始まり、
有名なものでは『日本往生極楽記』や『拾遺往生伝』などがある。

その内容は、高僧や信仰の篤い者が、
実際に阿弥陀仏の極楽浄土へと往生を遂げていく様子を克明に記した書物である。

江戸末期から明治初頭にかけては、一般檀信徒の往生を題材に比較的多くの編纂が行われたという。

今回、教えていただいたのは、『明治往生伝』第3編という書物である。

そこには確かに、長圓寺檀徒〇〇の往生の様子が書かれている。

日頃より、よく仏義を聴聞し、五重相伝を受け、日課称名の勤めを怠らず、
病床に臥し、ある日夢の中で釈迦如来が空中に来迎するのを見る。
その後、何年何月何日に仏の来迎を目のあたりにして正念往生をとげられた。

またその母上は、病床に来迎仏をかかげ沐浴にて身を浄め、善知識の臨終行儀によって
往生なされたその時刻まで鮮明に記されている。

他にも『明治往生伝』は国立国会図書館デジタルコレクションに公開されているので、
インターネットで閲覧も可能である。

さて、この方のご子孫は現在、関東にお住まいでいらっしゃる。

お墓参りに小倉へ来られた時に、このお話をした所、
ご先祖が往生伝に載っていたという事は初耳だと、大変感激されていた。


それから月日は経ち、
やはりご遠方につき、ご年齢と共にお墓参りに戻ることが困難という事で
まもなく墓じまいを行ない、新しい菩提寺にお願いする運びとなった。

施主様も相当に悩まれ、住職としても大変残念ではあるのだが、これもまた定め。

しかしご先祖様が、長圓寺檀信徒として『往生伝』に載り、その信仰の篤さを知らしめた事は、
本当に誉れ高きことだと思う。

この事は胸を張ってご子孫に伝えていただきたいし、
当山長圓寺としても後世に伝えていくべき財産となった。

拙僧では見つけることの出来なかった有難い宝。
この場を借りて、安永上人に改めて感謝申し上げたい。