【歴史】長圓寺・小倉祇園社建立の謎に迫る~その4~

長圓寺墓地には、初代宮司をはじめ幾人かの宮司が眠っている。

そこで、
長圓寺は小倉祇園社にとって神護寺や別当寺院的役割を果たしていた?
少々誇大妄想だが、逆に祇園社が鎮守社的な存在だったのではないか?と考え始めた。


しかしながら、明治維新の動乱や神仏分離の影響もあって長圓寺には明治中期以降からの記録しか残っておらず、全く確証が持てないのであった。

何か手掛かりは見つからないものかと、その日も市立図書館の郷土史コーナーを閲覧していた。

以前も目を通したはずの『小倉郷土史学』を手に取り、ページをめくっているとそこには

「細川忠興ゆかりの石燈籠について」 高山 定基 とあった、

奇しくも、八坂神社元宮司である故・高山定基氏の論考である。

現在、県指定の文化財となっている八坂神社の石燈籠一対に関して、その大きさの違いから、これは対ではなく、北殿と南殿の一殿に一基というスタイルで建てられ、且つ忠興のこだわりあっての造作であるとのことが概ね述べられている。

その中で高山氏は京都祇園社(八坂神社)の神仏混合についてや、また文化人たる忠興公が京都祇園社を意識(真似)していることに触れている。

そしてその次に、高山氏自身が石燈籠と同じ位の社宝であると自負する祇園社創建当時の棟札
二枚(北殿と南殿)が手描きで記されていた。

それを見て、私は思わず驚き、声をあげてしまった。

なんと北殿(高山家)の棟札の上部には阿弥陀三尊の梵字が記されていた。

神職である高山氏は恐らくあまり気に留めている様子はなく、象形文字のように書き写しておられるが、配置からしても間違いなくキリーク・サ・サクの阿弥陀三尊である。

その下には、
「奉建立 祇園御社一宇者 大願主 豊前後二品太守 細川越中守参議源朝臣忠興 敬白 元和三 丁巳  年九月吉祥日」  ※神主 高山孫太夫とある。

大願主忠興公の名のもとに阿弥陀三尊を奉り祇園社建立を報告しているのである。

長圓寺の阿弥陀如来像は、細川三斎公より寄付せらると伝わっているが、この棟札もその関連を物語っているのではないだろうか。

南殿(川江家)の棟札も願主や日付ともに記述は同じだが、梵字の部分が判別できない。これが薬師三尊であれば実に面白い。是非見てみたいものだが・・・。

(その後の調べで、他の神社でも現存する同様の棟札が存在する事が分かった。例えば、宮城県松島町の初原天神社の棟札には阿弥陀・薬師・観音の三尊をして、堂宇修復を祈願しており、供養導師を別当寺院が勤めたという記録が残っている。また、別の神社の場合では、廃仏毀釈の時に梵字の部分のみを消したり、切断したケースもあるという。仏教が関わっていたという痕跡を抹消した訳である。)


しかしながら、創建当時の棟札という間違いのない史料から小倉祇園社も同じく神仏混合であることが判明した。

そして初代宮司高山孫太夫が何故に長圓寺墓地に眠り、墓石には蓮台が彫られその上に名が刻まれているかを伺い知ることができたと感じている。

神仏習合によると八幡神の本地仏は阿弥陀如来である。
八幡宮より迎えられた祇園社初代宮司である。当時の考えからすれば決して不思議な事ではないのかもしれない。

そして祇園社は牛頭天王・素戔嗚尊を祀る、本地仏は薬師如来である。

忠興公はなぜ祇園社を勧請し燈篭を建てたのか?それは、眼病平癒の為である。

なぜ薬師如来が長圓寺に存在しているのか・・・おのずと理解へと近づいていくのではないか・・・。

余談ではあるが、この石燈籠の奉納者(願主)は忠興直臣の入江平内入道である。
この入江平内入道の妻はお霜という説がある。
あの細川ガラシャの遺言を託され、最期の様子を後世に残した(「霜女覚書」)ガラシャ御付の侍女である。
ここにもガラシャの因縁を感じる・・・。

さて貴重な発表を残していただいた高山定基氏のその後、八坂神社さんもいろいろとお有りで・・・現在この社宝である棟札は行方知れずというアナウンスであるという・・・。
この先、見ることは叶わないのであろうか・・・。


(画像はイメージです)