【長圓寺の歴史】細川家九曜紋(不定期連載)その1

まず、はじめに。

華岳山長圓寺の開山年は、嘉吉元年(1441)である。

これは、小倉城下町の有史上では2番目に古い。
(なぜなら中世以前の小倉の様子は史料が乏しく不明な点が多い)

明治期までは、末寺・末庵、計四ケ寺を抱えた寺院であったが、
幕末の小倉戦争における混乱に乗じた略奪などにより寺宝は散逸する。

また廃仏毀釈等の影響もあったか、末寺はすべて廃寺となり、
寺有地も経済的困窮を乗り切るために手放された。

その後昭和中期には、後継者の夭逝により無住にもなった。

もともと縁戚であったため、同じく小倉・宝典寺の住職(私の祖父・父)が兼務住職を勤め、
荒廃した伽藍も平成14年に大改修を行い、それと同時に拙僧が入山し、やがて第33世住職となった。

なぜに改めてここに綴るのか。

これは、寺伝の少ない長圓寺にとって後世に残すべき史料として
私が気づいた事を雑記していくものである。

ことの発端はいずれ述べるとするが、歴史を遡らずを得ない興味深いご縁に出会ったことによるものである。





昭和八年十月一日。当山長圓寺、五重相伝の記念写真である。

二十歳のころの祖母も行者として写っている。

前回、「往生伝について」の中でも触れていたが、
五重相伝とは浄土宗在家信者における最高の修行である。

この行により真の仏弟子となり、念佛の極意や生前に法名も授かる。

さて、
本堂前の提灯をご覧いただきたい。
やはり長圓寺の寺紋は細川九曜紋なのである・・・。
いや正確には、細川忠興公の時代のため、いわゆる九曜紋である。

小倉城下においては小笠原家の三階菱は今もよく目にする機会もあるはず。



もちろん現在の屋根瓦も九曜紋。昔の本堂の瓦も一つ現存している。

何故に、この九曜紋を拝領したのだろうか・・・。

武家にとって禅宗信仰が多い戦国末期から江戸前期、
どちらかと言うと大名にとって浄土宗寺院は、奥方や姫君の菩提を弔う場合が多い。

ちなみに長圓寺では細川家ゆかりの方を弔った記録はない。いや正確には残っていない。

もちろん浄土宗寺院なので藩主の祈願所になる可能性もないといっていいだろう。


写真に写る方々はその理由を伝え聞いていたのだろうか。

問いかけても、答えが返るはずもなく・・・。