【歴史】九曜紋下賜について再考する(忠興公と浄土宗)~その2~

次に、忠興とガラシャの娘であるお長について考えてみたい。
まず初めに、お長はガラシャ同様、洗礼を受けていたのではないかとされる人物である。

お長は、太閤秀吉の重臣前野長康の子である前野景定(長重)に嫁いだが、
2代目関白豊臣秀次の謀反いわゆる秀次事件において、前野父子は秀次を擁護したため
謀反連座の疑いにより、その後、切腹。
妻であるお長にも死罪を求められ、その嫌疑は舅である忠興にもかけられる。しかし家臣松井康之の奔走、徳川家康のとりなしによって忠興は異心のないことを認められると共に、お長を浄土宗にて剃髪出家させた上で、匿った。

この時の事は、『綿考輯録』巻十一に書かれている。

そして同じく『綿考輯録』巻十八には、

「一、九月二九日、前野出雲守後室 忠興君御女御名お長 安昌院殿御卒去、法号心月妙光・・・。」

という箇所がある。

要約すると、
慶長八年(1603)9月29日忠興の娘お長が亡くなられた。法名は安昌院殿心月妙光大姉。
位牌は八代安昌院にあり、安昌院は盛光寺の隠居所である。
盛光寺は元々西光寺といい、三斎公の愛妾の小上(コノウエ)法名・西光院法樹栄林の菩提寺として元和年間に中津に西光寺を建立した。西光寺は小上の弟で乗誉良運上人が開祖である。
それより下った第四世の住職が三斎公を慕って八代に西光寺を建立。
安昌院の位牌も初めは八代西光寺にあったが、後に盛光寺と改称。筑後善道寺の末寺なり。

それでは、次に八代市観光情報サイトを見てみよう。

http://www.city.yatsushiro.lg.jp/kankou/kiji003651/index.html

ここでは、小上は、小山リンとなっているが、概ね『綿考輯録』の記述と一致する。

そして現在は博物館に寄託されているそうだが、
西光寺より八代に運ばれた本尊は阿弥陀如来坐像で現在、県指定文化財となっている。
http://www.city.yatsushiro.lg.jp/kankou/kiji003382/index.html

さて、お長が亡くなったのは慶長8年9月。忠興公が小倉に入城して1年も経っていない。
西光寺は元和年間中津に開基とあるが、忠興が中津に隠居した元和七年(1621)以降のことであろう。

やがて西光寺は八代に随い、お長(安昌院)の位牌も祀ったとあるが、
では慶長8年から元和7年までの間、お長の位牌安置及び供養はどこで行われたのか?

小倉なのではないか。普通に考えると当然浄土宗寺院であるが、あるいは秀林院の可能性もある。


次に、江戸時代の全国浄土宗寺院の明細を記した『蓮門精舎旧詞』肥後国を見てみたい。



盛光寺の縁起を見てみると、

八代城下 菩提山智照院盛光寺
開山一蓮社乗誉良雲上人、生れは豊前国小倉、姓は上林
元和五年の起立、寛永元年十一月遷化とある。

『綿考輯録』と照らし合わせて考えると、
まず、小上の弟であるという乗誉上人は、(丹波)上林氏ということである。
丹波より小倉に付き従ったものと思われたが、乗誉上人の生れは豊前国小倉とある。

そして元和五年に起立とあるから、これは中津西光寺のことか?
てっきり忠興が中津に隠居した後に建立だと思っていただけに元和五年というのは・・・。

それにしても、宇土や八代の浄土宗寺院の開山上人の出身地がほぼ豊前小倉・豊前仲津(現・行橋辺り)というのも特筆すべき点である。

さて、盛光寺(西光寺)に関することは、だいぶん明らかになってきたが、
やはりお長(安昌院)についてが見えてこない。

そして、忠興公関係者と浄土宗の関連性は発見できたが、
忠興公自身の浄土宗転宗に関しては現段階では定かではない。

それは全くの事実無根なのか、それとも、やはりやんごとなき理由・・・
つまりはキリシタン信仰に関する何かが隠されているのか。

一体、当山長圓寺第六世、七世住職は忠興公と茶を呑みながら何を談義していたのか・・・。

九曜紋下賜と阿弥陀如来寄付。
当山檀家に伝わったガラシャのマリア観音の話。
『綿考輯録』の記述など。

以上から、当山長圓寺で一時的に何かが行われていた可能性はある。
それが、お長の供養であるのか、はたまた別の事か・・・。謎は深まる。