【歴史】九曜紋下賜について再考する(忠興公と浄土宗)~その1~

秋の彼岸も明け、物思いにふける。
 
くどいようだが小倉市誌「平井文洋漫筆」によると、

(長圓寺)六世貞鑑、七世玄達和尚の時、忠興毎度当寺に入駕す。
     又両和尚も屡々登城し、数寄屋に於て、茶の湯及長談深更に及ぶ。
     又諸品々拝領物多く在りしが、後遂紛失す。三斎公毎年九月祇園社に於て、
     御眼病願解の為め、自ら神事能を神前に供せらるる時、紺屋口より川船に召れ、
     当寺の裏門に着せられ、方丈に入て、御仕度あり。夫より本社に出御す。
     当寺の住職も、亦拝見を許さる。楽屋より北側四間目に、毎年桟敷を下被。
     小笠原家に至も亦然り。


この記述によると、当山長圓寺と細川三斎公は縁が深いことが分かる。
しかしながら実際の関係性が全くわからない。
現代に伝わる細川家の史料に長圓寺に関する話題が出てこないからである。

三斎公より九曜紋を下賜され、また寺伝に残るとおり、阿弥陀如来をご寄付いただいたり、
多数の宝物を拝領したということを考えると、
もう少し何か記録があって、細川家との縁起が寺伝として後世に伝わっていてもいいような気がする。

そもそもこの『平井文洋漫筆』とは、どこから調べ、この記述に及んだのだろうか・・・。
平井文洋という方を調べているのだが、今の所、わからない。
もしご存知の方がいたら教えていただきたい。

さて、
家紋下賜、阿弥陀如来像寄付・・・。

やはり長圓寺は細川家縁者の菩提所になっていたのではないかと、まずはシンプルに考えたい。


中世、大名や藩主は禅宗系を信仰する傾向にあり、
浄土宗はどちらかというと奥方や姫の菩提所が多いと私的には感じられる・・・。

たとえば豊前小倉における大名家と浄土宗の関連というと
高橋家と心光寺、小笠原家と峯高寺。いずれも正室や藩主の母の菩提寺である。



しかし細川忠興公においてはあまり浄土宗と接点がないように感じている。いや、正確には感じていた。
なぜなら、ガラシャはキリシタンであり、又、禅宗の法名、秀林院殿華屋宗玉大姉が付いているからである。また(明治以前の)細川家の主だった方々は、おおむね曹洞宗や臨済宗の儀軌にて葬らている。

しかし、あらためて、なんとか細川忠興と浄土宗の関係性の糸口を見つけたい。

するとある日、興味深い記述を見つけた。

『綿考輯録』巻十三の中のガラシャご生涯について語られている部分である。

「上様初は建仁寺の・・・(中略)、後年豊前小倉の切支丹寺にて絵像に御書せ被成けるに、切支丹は死をいさきよくする事をたつとぶにより、火煙の内に焼され給ふ半身を書たりけれは、此様にむさとしたる像を書くものかとて、宗門を改め浄土宗になされ、極楽寺へ御位牌を被遣候、其時のゐるまんにこはんと(一ニこまん) 云者ありけるか、そちも他宗になれ、是非変よと被仰けれハ、畏り奉り候、・・・」

とある。

大前提として、忠興在世から100年以上経った後の記述なので、確証できるものではないが、
宗門を(キリシタンから)浄土宗に改め、位牌を極楽寺に遣わせ(祀った)た、ことになる。

解釈としてまず、切支丹寺が存在していることから禁教令の前であると思われる。
そして、既に位牌がある事から故人であるので、宗門を改めさせたのはガラシャのことであろう。

ただし、この部分の書き出しは、「上様初めは」であり、
また浄土宗に「させ」ではなく「なされ」とあり、その後「そちも他宗になれ」と言っている点から忠興公自身が浄土宗に改宗した可能性も否定できない。

そうだとすると、大変なことである。


では、次に浄土宗極楽寺について述べたい。

『小倉市誌』によると、
 「果還山法蔵院極楽寺は米町にあり。・・・永禄四年二月妙誉開基す・・・」

『蓮門精舎旧詞』には、
 「果還山極楽寺 開山浄蓮社明誉上人当時開基は寛永年中・・・」

とある。具体的な縁起や寺伝にガラシャの足跡は見当たらない。

ところが、こちらをご覧いただきたい。

『小倉市誌』上篇の末部にある寺院雑載、
この部分は春日信映著「倉府俗話伝追加」にある寛政四年の寺院の記録である。



果還山極楽寺 号秀林院とあるではないか!

小倉入城後から、ガラシャの菩提寺秀林院が建立されるまでのわずかな間(約10年間)、
[秀林院が現在の小倉北区馬借に存在した年代は慶長末から寛永九年まで]
やはり忠興は浄土宗へと改宗し、ガラシャの位牌を極楽寺に置いた形跡があるのではないか。

浄土宗とした事には、何かやんごとなき理由が存在し、そしてその記録は削除および書面に残すことすら出来なかったのではないか・・・。

ちなみに現在の極楽寺の兼務住職さまにお伺いしたところ、そのような話は全く伝わっておらず、
また山・院号は、小倉市誌にあるように果還山法蔵院極楽寺というとの事である。

つづく