【エッセイ】ペットについての相談


先日、ある信徒さんから相談の電話があった。

愛犬を亡くしたAさんは、ある葬儀社が主催する終活サークルで
「愛犬の位牌を同じ仏壇に祀り、お骨も自分と同じ場所に納めたい。」
と想いを語ったところ、サークルの参加者からの猛バッシングを浴び、
ひどくショックを受けたとのこと。

私がどう答えたかは後述するとして、そんな悩みを聞いた数日後のこと・・・。

『週刊ポスト』の記者の方から「ペットの極楽往生」について取材のお電話があった。

あまりのタイミングにびっくりしてしまったのだが、僭越ながらお答えさせていただいた。
拙僧は学者ではないので、あくまでも一僧侶の個人的見解として・・・。

そして昨日、「Bさんから聞いたけど、ネットで週刊ポストに名前が出てるらしいね~。」
と組内のご住職さまからコメントが・・・。
自分すらまだ気づいてないのに噂って本当に早い。。。

恥ずかしながらせっかくの記念なので・・・

「宗教界で大激論 犬猫の極楽往生」 NEWSポストセブン

さて話は戻り、電話での相談について。

バッシングをした方の言い分は、
「動物は人間様とはちがうんだよ。先祖には嫌いな人もいるんだよ。一緒に祀ったら罰が当たるよ。」
概ねこのような言葉である。
 
私の見解。
(往生できるかどうかの問題は週刊ポストの方で)
 
1、人間とは違うけれど同じ衆生(生きとし生けるもの)である。
 
2、極楽浄土において菩薩行を積み重ねられているご先祖は好きとか嫌いとかなどという愚かな境界を
既に超越した存在である
 
3、慈悲深き仏である阿弥陀さまがなにゆえに罰を与えるのであろうか。

余談になるが、動物は時にとても神聖なものであり、世界には神格化された動物がいる。
 白象・白蛇あるいはヤタガラス・玄武・鳳凰などなど

また、釈尊の初転法輪を聞いたとされる動物たちは、
末法に生きる拙僧などよりもはるかに悟りに近いのではないか・・・。以上


結果、Aさんにはこれらを踏まえた上で、
  「気にされることはないですよ~。」とお伝えした次第。


最後に、ここで改めて浄土宗21世紀劈頭宣言を掲げたい

愚者の自覚を   (己を省みて、己のいたらなさを知ろう)

家庭にみ仏の光を (あたたかい家庭を築こう)

社会に慈しみを  (優しさに満ちた社会を築こう)

世界にともいきを (共に生きる平和な世界を築こう)




追記

ちなみに小倉競馬場には、競走馬の供養の為に「馬頭観世音」の碑がある。



題字は、宝典寺第19世ならびに長圓寺第31世吉水好春上人によるものである。

拙僧の祖父にあたる。