【起稿御礼】細川ガラシャと長圓寺蕪
私は以前『小倉市誌』をくまなく見ていた所、
その昔、小倉には長圓寺蕪菜という野菜があったという記録を見つけた。この時私はすぐに、この蕪は近畿地方から持ち込まれ、土着したものではなかろうかと推察した。
その発見から時を経てこの度「小倉藩葡萄酒研究会」会長、小川研次様より次のような論考文を起稿頂いた。
単に西洋種に負け歴史の表舞台から消えた従来種ととらえるのではなく、この背景が合致するならば明智光秀に脚光が浴びる昨今、北九州小倉の観光や食の歴史にとって、ワインと共に大きな発見となる可能性もあるのではなかろうか。
少し長くなるが、この自粛期間中のどこかお暇な時間に出来るだけ多くの方にお読みいただきイマジネーションを膨らませて頂きたく、下記の如くご紹介させて頂いた。
近い将来、小川氏が長圓寺蕪の料理とワイン(小倉藩が日本最初のワインを造ったとされる)を召し上がる姿を見てみたい。
「細川ガラシャと長圓寺蕪」 小川研次 著
明智光秀の出生地は文献と伝承により岐阜県や滋賀県といわれているが、二〇一四年に細川家家臣であった医師米田貞能(さだよし)の子孫宅にて発見された『針薬方』(はりくすりかた)と『獨見集』(どっけんしゅう・医薬書)に若き光秀の姿が浮かび上がる。
永禄九年(一五六六)に貞能が書き写した文書には「明智十兵衛が近江国高嶋郡田中城(現・滋賀県高島郡安曇川町)に籠城の時に語った(医学的)秘伝」とある。(細川ガラシャ展実行委員会発行『細川ガラシャ』平成三十年)
医学的知識を有した光秀は近江国で活動していたのだ。
元亀二年(一五七一)、光秀は織田信長から与えられた近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に坂本城を築城する。琵琶湖湖畔の水城は安土城に次ぐ壮麗さであったという。(『日本史』ルイス・フロイス著)
この時が光秀の黄金期といえよう。
光秀の愛娘玉子(一五六三~一六〇〇年)は八歳から細川忠興に嫁ぐまでの七年間をこの城で過ごしている。
琵琶湖の美しく輝く水面を見つめていた少女の姿が浮かぶ。
近江国の特産品である蕪には「兵主蕪」(ひょうずかぶ)、「近江蕪」がある。
京の聖護院蕪、松ヶ崎浮菜蕪、大阪の天王寺蕪も全てDNA鑑定により近江産の蕪をルーツとしている。(佐藤茂 龍谷大学農学部資源生物科学科教授)
さて、坂本城では「蕪」の料理が供されていたことは容易に想像できる。
光秀の大好物であったに違いない。
育ち盛りの玉子も食したことであろう。
やがて信長の命を受けた光秀は丹波攻めの拠点として天正六年(一五七八)に丹波国桑田郡亀岡に亀岡城(京都市亀岡市荒塚町)を築城する。
この年の八月、玉子は忠興と結婚し、勝竜寺城(京都府長岡京市)に入る。
偶然だろうか。京の伝統野菜である「聖護院かぶ」は現在では亀岡市が生産地の中心となっている。光秀が大好物の蕪を近江国から持ち込んだことも考えられるが、残念ながら史料がない。
天正十年(一五八二)六月二日、亀岡城から出陣した光秀は信長の宿所を襲撃した。
本能寺の変である。
「無道の者の子を妻とし難し、如何にすべきや」(『綿考輯録』巻九)
謀反人の子として玉子は生きる望みはなかった。
しかし、忠興は丹後国の三戸野(京都府丹後市弥生町)に家臣や侍女らとと共に蟄居させる。
およそ二年の蟄居後に、忠興は豊臣秀吉の赦しを得た。
大阪城下の玉造(大阪市天王寺)に屋敷を構えた忠興は玉子を迎入れる。
玉子は慶長五年(一六〇〇)七月までの十六年間、ここで暮らすことになるのだか、子育て、キリスト教への改宗(一五八七年、洗礼名ガラシャ)と多忙な時を過ごした。
玉子の瞼には今は亡き父光秀や母煕子、そして兄弟と過ごした坂本城での思い出が走馬灯の如き駆け巡ったことであろう。
「玉、取ってきたぞ」
片手に大きな蕪を持ち、満面な笑みと優しい眼差しで見つめる父がいた。
玉造に「天王寺蕪」ができるまでには、そう時間がかからなかった。
慶長五年十二月、忠興は亡き玉子の思い出と共に豊前国へ入った。
小倉城を拠点として町づくりを始めた忠興は、本丸の北西に位置する溜池(板櫃川)を自然の外堀とした。そして人工島(現・鋳物師町)を作り、浄土宗長圓寺を建立させた。
忠興は玉子との思い出のある「天王寺蕪」を奉納したのだろう。
やがて、それは名産品となる。
「小橋を渡れば、其の辺り一面新地畑にて、蕪菜の名所なり。世俗に長圓寺蕪菜と云う。」(『小倉市誌』)
この溜池は藩御用達の野菜生産地となり、今に「菜園場」の名を残す。