【歴史】板櫃川の流れ
この度の九州北部豪雨において被害に遭われた方々へ心からお見舞い申し上げます。
北九州市小倉北区も豪雨により周辺地域は避難指示が出ました。
テレビで板櫃川の水流の中継が幾度となく放送されていました為か、
いくつかのご心配のお電話をいただき、ありがたく存じます。
中継場所は近いとはいえ、長圓寺からは直線距離で約700mの辺りという場所でした。
とは言え、7日午前中は板櫃川・紫川ともに危険水域を超え、さすがに恐怖を感じました。
市内では、いまだ避難されている方もおられます。
今日7月8日も午後から雨が降るという予報ですが、ひどくならないことを切に願います。
さて、この板櫃川。
調べによると、古来より「降れば水害、照れば干ばつ」、そんな河川だったそうです。
実は、板櫃川は昭和8年ごろまで当山長圓寺の裏手沿いに流れていたのです。
幕末の様子
現在のサンリブ西小倉裏手から日豊本線沿いに北上、そしてテキサス1000裏、
九電変電所鉄塔辺り長圓寺墓地沿いはまさに板櫃川の河岸だったのです。
(金色の線が昔の流れ、
八幡から到津を通り菜園場・愛宕・小倉高校横を通り平松から海へ抜ける青色の線が現在の板櫃川)
昭和9年、水害の多さから大治水工事により現在の板櫃川の流れに付け替えられたという事です。
少なくとも享保年間に2度の水害。明治6・7・17・19・24年は、立て続けに被害甚大。
付け替え後の昭和28年未曽有の大水害。
これらを教訓に、特に昭和の大水害以降は河川工事・貯水池開発などを積極的に行い、
今では水害、渇水に対してとても強い都市となりました。
しかしながら今回、改めて川の流れと水害の歴史を振り返り、考えてみると、
実際、長圓寺墓地裏手境界沿いにあるお墓にはあまり古いものはなく、
もしかしたら明治期頃まではかなり被害に遭っていたのではないかと思わざるを得ません。
何か伝え聞いておられないか、あるお方にお命日参りで伺ってみようと思います。