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【長圓寺の歴史】細川家とのつながり(不定期連載)その2

さて、腰の重い私が、もう一度改めて長圓寺の歴史を調べることとなったのは、
奇しくもこのブログにも起因があった。


ある日、本堂の瓦を眺める一人の紳士がいらした。

お墓参りの檀家さん??ではない・・・。

遠くから会釈し、目が合うと、こちらに来られ

「確かに九曜紋の瓦ですね。ガラシャのマリア像についてのブログを見ました。」

とお話になられ、驚く私。。。


確かに、以前、長圓寺住職のO型ブログに書いた。

その記事内容は、うちの檀家さんの言い伝えである。
長圓寺には「細川ガラシャの秘仏・マリア観音」があったとか、なかったとか。
詳しくは➡「細川ガラシャ」O型ブログ



さて、本堂を眺めておられたその方は、
小川さんと名乗られ、そこから沢山の興味深い話を教えてくださった。

私も食い入るようにそのお話に耳を傾けていると、

日本で最初に作られたワインは細川小倉藩の物であり、
その目的は細川ガラシャ追悼のために使用されたのではないかと推察したことから、
細川家について小倉城下・熊本・京都はもちろん、世界を回って調査されているとの事。

『小倉藩葡萄酒事情』という著作も拝見させていただいた。

小川さん・ワイン。。。

・・・あっ。

その方は、小倉のワイン界で有名な小川研次さんであった。

私の父とは、某国際社会奉仕団体の会員として一緒に活動されておられ、
生前中の父からは、その御名前を聞く機会があったのを思い出した。

まさかこんなご縁があるとは・・・。

これを機に、改めてもう一度長圓寺の歴史や細川家とのつながりを調べてみようと考えたのであった。



【長圓寺の歴史】その1


【長圓寺の歴史】細川家九曜紋(不定期連載)その1

まず、はじめに。

華岳山長圓寺の開山年は、嘉吉元年(1441)である。

これは、小倉城下町の有史上では2番目に古い。
(なぜなら中世以前の小倉の様子は史料が乏しく不明な点が多い)

明治期までは、末寺・末庵、計四ケ寺を抱えた寺院であったが、
幕末の小倉戦争における混乱に乗じた略奪などにより寺宝は散逸する。

また廃仏毀釈等の影響もあったか、末寺はすべて廃寺となり、
寺有地も経済的困窮を乗り切るために手放された。

その後昭和中期には、後継者の夭逝により無住にもなった。

もともと縁戚であったため、同じく小倉・宝典寺の住職(私の祖父・父)が兼務住職を勤め、
荒廃した伽藍も平成14年に大改修を行い、それと同時に拙僧が入山し、やがて第33世住職となった。

なぜに改めてここに綴るのか。

これは、寺伝の少ない長圓寺にとって後世に残すべき史料として
私が気づいた事を雑記していくものである。

ことの発端はいずれ述べるとするが、歴史を遡らずを得ない興味深いご縁に出会ったことによるものである。





昭和八年十月一日。当山長圓寺、五重相伝の記念写真である。

二十歳のころの祖母も行者として写っている。

前回、「往生伝について」の中でも触れていたが、
五重相伝とは浄土宗在家信者における最高の修行である。

この行により真の仏弟子となり、念佛の極意や生前に法名も授かる。

さて、
本堂前の提灯をご覧いただきたい。
やはり長圓寺の寺紋は細川九曜紋なのである・・・。
いや正確には、細川忠興公の時代のため、いわゆる九曜紋である。

小倉城下においては小笠原家の三階菱は今もよく目にする機会もあるはず。



もちろん現在の屋根瓦も九曜紋。昔の本堂の瓦も一つ現存している。

何故に、この九曜紋を拝領したのだろうか・・・。

武家にとって禅宗信仰が多い戦国末期から江戸前期、
どちらかと言うと大名にとって浄土宗寺院は、奥方や姫君の菩提を弔う場合が多い。

ちなみに長圓寺では細川家ゆかりの方を弔った記録はない。いや正確には残っていない。

もちろん浄土宗寺院なので藩主の祈願所になる可能性もないといっていいだろう。


写真に写る方々はその理由を伝え聞いていたのだろうか。

問いかけても、答えが返るはずもなく・・・。